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2013年01月22日

書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)

 

(旧暦12月11日)

 默阿彌忌
 歌舞伎作者、河竹默阿彌の明治26年(1893)の忌日。 『三人吉三廓初買』、『青砥稿花紅彩画』等の人気狂言を書き、近松門左衛門、鶴屋南北とともに、三大歌舞伎作者の一人とされている。

 お嬢吉三が、夜鷹を殺して百両奪ったあと、ゆったりと唄いあげる名文句。

 月も朧に白魚の 篝もかすむ 春の空

 冷てえ風にほろ酔いの 心持ちよくうかうかと
 浮かれ烏のただ一羽 ねぐらへ帰る川端で

 竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく手にいる百両

(呼び声)おん厄払いましょう、厄おとし

 ほんに今夜は節分か
 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし
 豆だくさんに一文の 銭と違って金包み 
 こいつは春から 縁起がいいわえ
 『三人吉三廓初買』大川端の場


 

 『三人吉三廓初買』は、百両の金と庚申丸という刀によって、同じ吉三の名前を持つ3人の盗賊の身に降りかかる因果を描いた作品。
 元は僧だった和尚吉三、女として育てられたため女装で登場するお嬢吉三、元旗本の御曹司お坊吉三の3人が出会って義兄弟となる「大川端の場」。


  

 「九成宮醴泉銘」は、楷書の極致として書道の教科書にも紹介されている大変に有名な碑文です。書体は隋代に行われた方形から脱して特色ある長方形を成し、書聖と称された東晉の書家王羲之(303〜361)の楷書を脱して隷法を交え、清和秀潤な風格があると評されています。
 碑は高さ約2.3m弱、幅約1m強、一行50字、全24行、一文字の大きさは約2.5㎝で、陝西省麟遊県天台山に現存しています。
 
 九成宮は唐王朝の離宮で、陝西省西安の西北 150kmの麟遊県からさらに西方数kmの天台山という山中にありました。
 もともとは隋の初代皇帝文帝(在位581〜604)が、上柱国、御史大夫の楊素( ? 〜606)に命じて、避暑用の離宮としてに造営させた仁寿宮で、開皇十三年(593)から2年がかりで築かれた大宮殿でした。

 貞観五年(631)、唐の第二代皇帝太宗(在位626〜649)はこれを修復させて九成宮と改め、離宮としました。
 九成という名前の由来は、この宮殿が山の幾層にも重なり合った場所にあることにちなんでいると云います。

 この地は真夏でも涼しく、避暑地としては適していましたが、高地でもあり、水源に乏しい所であったようです。

 貞観六年(632)初夏の旧暦四月、太宗がこの地に避暑に赴き、長孫皇后(601〜636)を伴って離宮内を散策していると、西側の高閣の下にわずかに湿り気のあるところを見つけました。
 太宗はそこを杖でつついてみると、水が流れ出してきました。

 太宗はそれを唐王朝の徳に対応する瑞兆だと喜び、魏徴に撰文させ、太子率更令(皇太子の養育を司る官織)の歐陽詢(557〜641)に書かせて建てた記念碑がこの「九成宮醴泉銘」です。









  歐陽詢、潭州臨湘人、陳大司空頠之孫也。父紇、陳廣州刺史、以謀反誅。詢當從坐、僅而獲免。陳尚書令江總與紇有舊、收養之、教以書計。雖貌甚寢陋、而聰悟絶倫、讀書即數行俱下、博覽經史、尤精三史。仕隋爲太常博士。高祖微時、引為賓客。及即位、累遷給事中。
詢初學王羲之書、後更漸變其體、筆力險勁、爲一時之絶。人得其尺牘文字、鹹以爲楷範焉。高麗甚重其書、嘗遣使求之。高祖嘆曰、不意詢之書名、遠播夷狄、彼觀其跡、固謂其形魁梧耶。
 武德七年、詔與裴矩、陳叔達撰藝文類聚一百卷。奏之、賜帛二百段。
 貞觀初、官至太子率更令、弘文館學士、封渤海縣男。年八十余卒。
 『舊唐書 卷百八十九 上』


 

 歐陽詢(557〜641)は潭州臨湘(湖南省長沙)の人で、陳(中国南北朝時代の国、557〜589)の大司空(監察を審議する官)である頠(489〜563)の孫でした。 
 父の紇(538〜570)は陳の廣州刺史(知府知州を治める長官)でしたが、第四代高宗宣帝(在位568〜582)の太建元年(569)、廣州で兵を挙げて敗れ、翌年、誅せられてしまいました。

 歐陽詢も連座して責を負うべきところでしたが、かろうじて罪を免れることができました。陳の尚書令(上奏事を掌り、綱紀を統括し、一切を取り仕切る職掌を有していた)である江總(519〜594)は紇と旧交があり、詢を引きとって養育し、読書、数学を教えました。彼はとても醜い容貌でしたが、聡明さは人並みはずれており、書を読めば数行を同時に読み下し、博く経書や史書を読み、特に史記、漢書、後漢書の三史に精通していました。後に隋に仕えて太常博士(儀礼を司る官)となりました。唐の高祖(李淵、566〜635)が位のなかったときに、太子の侍従官として招かれました。高祖が皇帝に即位(在位618〜626)すると給事中(詔勅の審査、出納を行う門下省の詔勅等を司る官)に昇進しました。 

 歐陽詢は初め王羲之の書を学びましたが、その後次第に書風を改め、筆力は非常に力強く、当時の最高の位置にありました。人々は彼の手紙や書簡を得て楷書の手本としました。 
 高麗(高句麗)ではたいそう彼の書を重んじ、使者を派遣してこれを求めさせました。 そこで高祖はため息をついて言いました。「歐陽詢の書名が遠く夷狄の地に伝わっているとは思いもよらなかった。彼の筆跡を見るに、全く体つきの大きなことなど想像もできない」と。 

 武徳七年(624)、勅命によって裴矩(557〜627)、陳叔達( ? 〜635)と共に藝文類聚(百科全書)一百巻を撰文して奏上し、反物二百段を賜りました。
 貞觀の初め、官位は太子率更令(皇太子の養育を司る官)、弘文館学士となり、渤海県の男爵として封ぜられました。八十余歳にして亡くなりました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:18Comments(0)