さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  
Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2012年07月04日

漢詩(30)ー秋瑾(2)ー寶刀歌

 

 匕首を構える秋瑾女史

 (旧暦5月15日)

 秋閨瑾が生まれたのは、清朝末期最大の実力者西太后(1835〜1908)が幼い甥の載湉(Dzai Tiyan;1871〜1908)を光緒帝として即位させて二度目の垂簾聴政についた光緒元年(1875)の晩秋、陰暦の秋十月でした。

 秋家は代々、科挙を受験する名門の家系であり、曾祖父の秋家丞、祖父の秋嘉禾(?〜1895)や父親の秋寿南(1850〜1901)も県試、府試、院試、歳試、郷試の難関を乗り越えて進士となるための試験である会試の受験資格がある挙人に及第しています。
 
 そして曾祖父の秋家丞は江蘇省邳州の知州(州知事)、祖父秋嘉禾は知府相当官、父秋寿南は直隷州の知州に任官しています。

 祖父秋嘉禾が福建省厦門知府として赴任するのに同行した父寿南は、閨瑾の兄誉章が六歳になったのを機に、専門の教師を雇い、家塾を開いて我が子と学友に教育を施しますが、閨瑾はその家塾で学ぶことを祖父に請い、許されます。

 閨瑾は四人兄妹の二番目でしたが、兄妹中で最も聡明であった閨瑾を父寿南はことの他かわいがり、自ら唐詩、宋詞などを教えたといいます。
  
 十五歳の頃、閨瑾は母單氏の実家である浙江省蕭山へ母や兄妹とともに里帰りしますが、そこで閨瑾は自ら願って母の実弟の單以南から馬術や武術を修得しています。

 光緒二十二年(1896)、二十歳の閨瑾は本人の意思とは関係ない親同士の取り決めにより、やむなく湖南省湘潭県きっての富豪に数えられる王家に嫁ぎます。夫の王廷釣は閨瑾より二歳年下の十八歳でした。
 やがて沅德、桂芬の一男一女を授かるも、この結婚は閨瑾にとっては不満と鬱屈と憤りの日々であったようです。

 光緒二十一年(1896)、大清帝国は甲午戦争で日本に敗れて遼東半島、台湾、澎湖列島を割譲し、国家の歳入総額二年半分に相当する二億両もの賠償金を支払う結果になってしまいます。

 さらには光緒二十六年(1900)に起きた庚子事変では、西太后が義和団を称する秘密結社の排外運動を支持して大清帝国自らが欧米列国に宣戦布告したために、国家間戦争となってしまいます。
 やがて英・米・仏・露・独・墺・伊・日の八ヶ国聯合軍が首都北京を占領し、翌光緒二十七年(1901)九月に調印された辛丑条約(Boxer Protocol)によって、四億五千万両もの莫大な賠償金の支払いを義務づけられて、清朝は「半植民地」ともいうべき状態に陥ってしまいます。

 このころ、夫の古い因習的な女性観にも反撥を感じていた秋瑾は纏足をやめ、かつ背広、革靴、ハンチングキャップ(鳥打帽)という男装をするようになります。

 さらには、京師大学堂速成師範館(北京大学教育学院の前身)正教習として日本から派遣されていた服部宇之吉博士(1867〜1939)の夫人である服部繁子と知り合い、日本に留学して日本の女子教育の現状を確かめ、救国のため、自己の自立のため、女性解放のために学ぶことを決意します。

 このころの詩に「寶刀歌」や「寶劍歌」があり、憂国の烈々たる心情を謳っています。

 寶刀歌

 漢家の宮闕 斜陽の裡(うち)
 五千餘年の 古國死す。
 一睡 沈沈として數百年
 大家(みな)は識らず 奴と做(な)るの恥を。

 憶へ昔我が祖 名は軒轅(けんえん、伝説の帝王黃帝)
 地を闢(ひら)く 黄河及び長江
 大刀霍霍(くわくくわく、きらめく)として 中原を定む。

 梅山を痛哭するを 奈何(いか)にすべき
 帝城の荊棘(けいきよく、いばら) 銅駝(どうだ、宮廷)を埋めたり。
 幾番(何回)か首(かうべ)を回らして 京華(みやこ)を望めば
 亡国の悲歌 涙涕多し。

 北上せる聯軍 八國の衆に
 我が江山(山河)を 又も贈送す。
 白鬼西より來りて 警鐘を做(な)し
 漢人驚破す 奴才(覚醒していない漢民族)の夢。

 主人我に贈る 金錯刀(黄金の象眼を施した刀)                      
 我今此を得て 心(こころ)英豪(えいごう、たけだけしい)たり。
 赤鐵(暴力闘争)主義にて 今日に當れば
 百萬の頭顱(とうろ、されこうべ)も 一毛に等し。

 日に沐し月に浴せば 百寳光(かがや)き
 生を輕んずるの七尺 何ぞ昂藏(かうぞう、意気が揚がる)せん。
 誓って死裏に 生路を求め
 世界の和平は 武裝に賴る。

 觀(み)ずや荊軻を 秦客と作(いつは)り
 圖(づ)窮(きはま)りて匕首 盈尺(えいしやく、短い距離)に見(あらは)る。
 殿前の一撃 中(あた)らずと雖も   
 已に奪ふ 專制魔王(始皇帝)の魄(たましい)。


 我隻手(せきしゆ、ひとり)にて 祖國を援(たす)けんと欲すれど                  
 奴種(奴隷根性)流れ傳はり 禹域(中国)に徧(あまね)し。
 心(こころ)死せる人人 爾を奈何せん
 筆を援(と)り 此を作る寳刀歌
 寳刀の歌 肝膽に壯たり。

 死國の靈魂 喚起多く
 寶刀侠骨(侠気) 孰與(いづれ)ぞ儔(ちう、仲間)なる。
 平生了了(明々)たり 舊き恩仇を
 嫌ふ莫れ 尺鐵の英物に非ざると。

 救國の奇功 爾に賴って收めんとせば
 願はくは茲(これ)從り 天地を以て鑪(たたら、製鉄炉)と爲し
 陰陽を 炭と爲し
 鐵は 六洲より聚(あつ)む。
 鑄造し出す 千柄萬柄の刀にて
 神州を澄清(ちやうせい、清める)せん。

 上は我が祖黄帝 赫赫(くわくくわく)の成名を繼ぎ
 一洗す 數千數百年の國史の奇羞(きしう、おかしな恥辱)を。
  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:20Comments(0)漢詩