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2012年06月28日

秋津嶋の旅(18)ー北陸道(1)ー金澤

 

 金沢城の3層3階の菱櫓と橋爪門続櫓をつなぐ2層2階の五十間長屋

 (旧暦5月9日)

 芙美子忌  小説家林芙美子の昭和26年(1951)年の忌日。

 

 自伝的小説『放浪記』や底辺の庶民を慈しむように描いた作品などにより戦前の文壇で活躍した。
 花の命は短くて苦しきことのみ多かりき



 板橋村にかつてあった加賀藩下屋敷の関係から友好姉妹都市締結をしている石川県金沢市からのご招待で、金沢百万石まつりに行ってきました。

 現在の金沢市中心部はかつて石浦郷七ヶ村(石浦村・笠舞村・保島村・朱免野村・木新保村・今市村・山崎村)と呼ばれた地域で、この地域は交通の要所であり古くからの繁華街でもある現在の武蔵ヶ辻付近から犀川の左岸に至る広大な面積を有していました。

 室町時代の後期、第百三代後土御門天皇(在位1464〜1500)の御代、第九代将軍足利義尚(在職:1473〜1489)在職中の長享(1487)のころ、現在の金沢城の地に浄土真宗本願寺の御山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立しました。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んでいました。

 なお、「尾山」という地名は、白山よりこの地まで山が続いて始めてこの地で終わるので、終り山という意味を略して「をやま」と云った、あるいは白山の尾という意味で尾山と呼ぶとも云われています。

 文禄元年(1592)、藩祖前田利家(1538〜1599)の命により、世子前田利長(1562〜1614)がそれまで土築であった尾山城を壘石で編築し、小立野の方を斫(き)り抜いて地底に陰樋を設け、水路を引き通してより改めて金澤城と号するようになったとされています。

 ○金城名號來因
 金澤・尾山・御山三名一城にして、當國の都城也。蓋し尾山は古記に考ふるに、石川郡山崎山の尾先に在るゆゑかく號すとなり。又云ふ、當城地は白山より是まで山續き綿々として斷えず。此の城地に至りて始めて終るに因りて、終り山と云ふ義を畧(略)してヲヤマと唱へ、又白山の尾と云ふ意にて尾山とも呼ぶと也。
 
(中略)

 蓋し當城地は暦應(1338〜1341)康永(1342〜1344)の比(ころ)を歴て、享徳二年(1454)癸酉(みずのととり)に至りて漸く城地となる。而して又三十餘年を經て、長享元年(1487)丁羊(ひのとひつじ)の比(ころ)城地漸く固くなり、本願寺の釋徒(門徒)推崇して加賀の御山と稱すと云ふ。

 天正八年(1580)庚辰(かのえたつ)、佐久間盛政御山を改めて尾山の字に作ると見ゆ。然れども此の年に佐久間氏新に尾山の字を造り出すにはあらじ。本願寺僧徒の長享(1487)以來御山と唱へ來りしを、佐久間氏之を忌むゆゑ古號の尾山の文字に復せし成るべし。但し天正前後の軍記に、尾山・御山互に相記して差別なき者は敢て筆者の罪に非ず。其の比(ころ)の人の各々言ふがまゝに書する也。

 金澤の號は、按ずるに、古への庄號の後に國都の名と成りたるならん。其の故は加州の古への莊名に金澤庄あり。金谷門より蓮池の亭地・學校邊を云ふと也。

 南敵樓(敵を見張るための楼閣)の下に沸水あり。古へ是を金洗澤と呼ぶ、後人畧(略)して金の澤と云ふと也。
 老人の談柄(話の種)に、往古芋掘藤五郎と云ふ者あり。沙金を堀り釆りて此の澤水にて洗ふより、金澤の美號起るともいへり。

 且金澤城と呼ぶこと、文禄元年瑞龍公(初代藩主前田利長)始めて稱號を建て玉ふと、本藩の古録にあれど明了ならず。
 (後略)

 『越登賀三州志』 來因概覧附録巻之一


 

 金城霊澤

 

 この芋掘藤五郎の伝承は、加賀藩人持組二千五百石富田景周(1746〜1828)が文化二年(1805)にまとめた『越登賀三州志』 來因概覧附録巻之一の「金城名號來因」の項に金澤の名称の由来として収録されています。

 芋掘藤五郎
 相傳ふ。古へ當國石川郡山科村に藤五郎と號せる道人(俗事を捨てた人)あり。加賀介藤原吉信(鎮守府将軍藤原利仁の孫)の末裔なりと云ふ。薯蕷(しよよ、やまのいも)を堀り釆り、之を市に鬻(ひさ)ぎて一身の生計となすゆゑ、時人(じじん:その時代の人)芋堀藤五郎と呼ぶ。
 爲人(ひととなり)寡欲にして奢らず。家に四壁なく、衡門(こうもん、粗末な門)三尺に盈(み)たざれども蔬食を甘んじて心晏如(安らかで落ち着いている)たり。羲皇(古代中国神話に登場する伝説上の帝王)上の人の風致(おもむき)あり。

 爰に和州(大和国)初瀬里に生玉右近萬信と云巨富の人あり。居恒子(後継ぎ)なきを恨んで、長谷の觀世音に祈り一女子を産することを得たり。その女(むすめ)美にして艶也。名を和五と呼ぶ。破瓜(はか、16歳)の年に至れば、右近其の婿を擇(えら)ぶに、一夜觀世音夢裡に示現して宣ふ。彼が女(むすめ)婿となる者は加州の芋堀藤五郎也と。右近夫婦即ち佛告に随ひ、巨萬の財寶を従者に荷擔せしめ、和五を携へて遙々藤五郎の家に到るに、纔(わずか)に容膝(ようしつ、狭い)の小廬(粗末な家)也。

 然れども佛告に背かず、藤五郎に此の旨を謀る。藤五郎元より之を辭すといへども、固く乞うて之に嫁せしめて、右近夫婦は歸國せるが、長谷の觀音は守本尊なれば、和五其の像を恒に懐にし、夫に仕へて貞節の令聞あり。藤五郎奢(おごり)を憎めば、其の財寶を近鄕の貧民に盡(ことごと)く分與し、其の身は愈(いよいよ)薯蕷を堀りて食ふのみ也。

 或日右近の方より沙金一包を贈るに、藤五郎之を腰に夾みて山に行き、田の雁を見て之を投げつけて歸る。和五其のことを聞き、驚きて云ふ。過大の沙金一朝にして抛(なげう)つこと其の故いかにと。藤五郎笑ひて云ふ。沙金は我が薯蕷を掘るの地に多し。何ぞ之を惜しまん。取り皈(かへ)り與へんと。明日齎(もたら)し來ること若干也。其の沙金を洗ひし澤を後に金洗澤と稱す。即ち今學校境中の金澤是也と云ふ。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 10:01Comments(0)秋津嶋の旅