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2012年01月30日

陶磁器(14)−琺瑯彩(景徳鎮官窯)

 

 清雍正 黃地琺瑯彩梅花紋碗 高6.2cm、口径12cm、足径4.6cm

 (旧暦1月8日)

 景徳鎮官窯の発展に多大な貢献を成した景徳鎮御器廠督陶官唐英(1682〜1756)は、一時、官窯を去る雍正13年(1735)に、御器敞のなかに「陶成紀事碑」という記念碑を建立しました。

 それによれば、景徳鎮官窯の一年間の経費には淮安板閘関銭糧八千両(テール)が用いられ、工価、飯食、泥土、釉料は民間の時価に照らして公平に採資して、少しも不正が無いように努めていたと云います。

 ちなみに、清朝は銀を秤量貨幣(品位・量目を検査してその交換価値を計って用いる貨幣)として用いていましたが、その秤量の重さの単位「両(Tale)」は、地域や役所によって基準が異なり、その主なものだけでも、
  face03庫平両=37.3125g 
  face05海関両(関平両)=37.679g 
  face02上海両(申漕平両)=33.824g
などの差異がありました。

 1庫平両(清朝政府の納税標準)=37.3125gとして、淮安板閘関銭糧八千両は銀298.5㎏と試算されますが、銀の現在価値80円/g(平均値)とすると、淮安板閘関銭糧八千両は2,388万円に相当します。

 余談ですが、日清戦争後の下関条約における清国からの軍事賠償金・庫平銀2憶両(当時の邦貨換算2億9,930万金円)とその後の三国干渉による遼東半島還付代償金・庫平銀3,000万両(当時の邦貨換算4,490万金円)は合計857.9万㎏となり、現在価値では6,863億円、当時の日本の国家予算約8000万円の4倍強の3億4400万円以上を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせています。

 20世紀初頭の清国の歳入は約8,800万両と云われており、2億3,000万両は清国の国家予算の3倍弱に相当する膨大な金額でした。
 
 陶成したる廠器は、每歲秋、冬の二季に船隻・夫役(運搬夫)を雇ひ覓(もと)め、圓、琢器皿六百餘桶を解送(護送)す。歲例(例年)、盤、碗、鍾(壺)、碟(皿)等上色の圓器、一二寸の口麵(口径)由り以て二三尺の口麵(口径)に至るものは一萬六七千件。其の選に落ちたるの次色は、尚六七千件有り、一並(一緒)に裝桶して京(北京)に解(護送)し、以て備賞(賜与)に用ふ。其の瓶、罍(らい、雷雲の文様の酒樽)、樽、彝(い、酒器)等上色の琢器、三四寸の高さ由り以て三四尺の高さに至る大なるものは、亦た歲例(例年)二千餘件。尚ほ選に落ちたる次色有り二三千件に等しからず、一並(一緒)に裝桶して京(北京)に解し、以て備賞に用ふ。
 《陶成紀事》 唐英撰 嘉穂のフーケモン拙訳


 また毎年秋、冬の二季に焼成された敞器は船や運搬夫を雇い、円琢器皿は六百余桶を北京に護送した。盤・碗・鐘(壺)・碟(小皿)などの高品質の円器(円い平面的な磁器)で口径一・二寸から口径二・三尺のものは一万六・七千件の外、選に落ちた次位のものは六・七千件あり、一緒に桶に収蔵してを京師(北京)に送り、皇帝からの下賜の用に供した。
 其の瓶、罍(らい、雷雲の文様の酒樽)、樽、彝(い、酒器)等の高品質の琢器(瓶、樽などの立体的な磁器)で、三・四寸の高さから三・四尺の高さに至る大きな磁器は、亦た例年二千餘件。なお選に落ちた次位のものは二・三千件以上あり、是も亦一緒に桶に収蔵してを京師(北京)に送り、皇帝からの下賜の用に供した。
 《陶成紀事》 唐英撰


 「琺瑯」は日本では七宝焼として知られていますが、金、銀、銅などの金属を素地(胎)として、表面にシリカ(二酸化ケイ素)を主成分とするガラス質の釉薬を高温で焼き付けたもので、中国には北宋の時代(12世紀頃)にヨーロッパから伝わったとされています。

 七宝とは法華経見宝塔品第十一の

 其の諸の幡蓋(ばんがい)は、金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・碼碯(めのう)・眞珠(しんじゅ)・玫瑰(まいえ)の七宝を以て合成(ごうじょう)し、高く四天王宮に至る。

に拠り、その七宝に匹敵するほど美しいことから名称がつけられたと伝えられています。

 宋代までの中国の陶磁器は、「玉の神秘な色の再現」を追及していたために、白磁、青磁などの純色なものが尊ばれていました。そのため、ガラス質の琺瑯は、その多彩な発色故に異端視されていました。
 
 そのような琺瑯が重用されるようになったのは、明の第7代皇帝景泰帝(在位1450〜1457)であったと云われています。 
 景泰帝は朝廷内に琺瑯作をつくり、門外不出の技術として琺瑯を制作させました。古くは「銅胎摘絲琺瑯」と呼ばれていた琺瑯は、朝廷の手厚い保護のもと発展し、中国独特の琺瑯芸術へと成長しました。当時の器物の多くは藍釉が下地になっていたので、「景泰藍」と呼ばれました。

 清代に入り、白磁の表面に琺瑯を焼き付ける「琺瑯彩」の技術が開発されました。「琺瑯彩」に魅せられた清の第4代康煕帝(在位1662〜1722)は、康煕57年(1718)、琺瑯作を内廷の養心殿に移し、制作体制を強化しました。
 当時、琺瑯彩の釉薬はすべて国外から調達していましたが、色彩が九彩しかなく、また表面が滑らかな白磁には剥落しやすいという弱点がありました。
 
 多くの資金と職工が投入されましたが、新しい琺瑯彩の技術は、第5代雍正帝(在位1722〜1735)に引き継がれ、試行錯誤の末、雍正6年(1728)に実用化されました。剥落についても、芸香油という特殊な油を用いることにより改善されました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:41Comments(0)陶磁器