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2009年12月15日

おくの細道、いなかの小道(11)-しのぶの里・佐藤庄司が旧跡

 

 文字摺石

 (旧暦 10月29日)

 早苗とる 手もとや昔しのぶ摺

 さて、芭蕉翁一行は、元禄2年(1689)5月2日、当時の堀田家10万石の城下町福島の宿を出て、かはらの左大臣源融の歌ことば「しのぶもぢずり」で名高い信夫郡岡山村山口を目指します。

 一 二日 快晴。福島ヲ出ル。町ハヅレ十町程過テ、イガラべ(五十辺)村ハヅレニ川有。川ヲ不越、右ノ方ヘ七、八丁行テ、アブクマ川ヲ船ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。ソレヨリ十七、八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ石アリ。柵フリテ有。草ノ観音堂有。杉檜六、七本有。虎が清水ト云小ク浅キ水有。福島ヨリ東ノ方也。其辺ヲ山口村ト云、ソレヨリ瀬ノウヱヘ出ルニハ、月ノ輪ノ渡リト云テ、岡部渡ヨリ下也。ソレヲ渡レバ十四、五丁ニテ瀬ノウヱ也。山口村ヨリ瀬ノ上ヘ弐里程也。
 (曾良旅日記)


 陸奥国信夫郡で産出された乱れ模様の摺り染めは、「山繭を紬いで織り、天然染料で後染めをする織物」で、奈良時代初期の頃からの特産品として都で珍重されたそうです。
 忍草(Davallia mariesii)の葉を布帛に摺りつけて、もじれ乱れたような模様を染め出したもの、あるいは、ねじれ乱れたような模様のある石に布をあてて摺りこんで染めたものと解説されています。

 題しらず                  かはらの左大臣
 陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり たれゆゑに乱れむと思ふ我ならなくに 
 (古今集 巻十四 恋歌四 724)


 第52代嵯峨天皇(在位、809~823)の12男、河原左大臣源融(822~895)は、『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれ、臣籍に下って源姓を賜り、侍従、右衛門督などを歴任して、貞観14年(872)には51歳で従一位左大臣にのぼっています。

 正三位行中納言源朝臣融加陸奥出羽按察使。本官如故。
 『日本三代實録』 巻八 清和天皇 貞觀六年三月八日甲午


 貞観6年(864)3月8日、陸奥、出羽の按察使(あぜち、地方行政を監督する律令の令制に規定のない官職)に任命されますが、実際には陸奥国府である多賀城には赴任していない遙任(目代と呼ばれる代理人を現地へ派遣し、実際には赴任しない)であったとされています。

 源融は、その邸宅である六条河原院に因み河原左大臣と称されましたが、その庭園は鴨川の水を引き入れて大きな池を作り、中の島を「籬(まがき)の島」と名付けるなど、奥州塩竃の浦の風景に模した作りで、難波津の北の汐を毎月30石運ばせて藻塩を焼かせ、その風情を楽しんだと伝えられています。

 一五一 河原の院に融公の霊住む事 
 今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥の塩竃の形を作りて、潮を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。(後略)
 「宇治拾遺物語 巻一二 一五」


 嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。一生御遊の便とし給ふ。然れどもその後は相続して翫(もてあそ)ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜水は。雨の残の古き江に。落葉散り浮く松蔭の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。されば歌にも。君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。
 能「融」(世阿弥の幽玄能)

 
                            つらゆき
 河原の左のおほいまうちぎみの身まかりてのち、かの家にまかりてありけるに、塩竃といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
 
 君まさで煙たえにししほがまの うらさびしくも見えわたるかな
 (古今集 巻十四 哀傷歌 852)
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:42Comments(0)おくの細道、いなかの小道