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2009年04月01日

やまとうた(24)-谷風に とくる氷のひまごとに

 
 ユリ科 スノーフレイク
 別名:オオマツユキソウ(大待雪草),スズランズイセン(鈴蘭水仙) by 草花写真館

 (旧暦  3月6日)

 三鬼忌、西東忌 新興俳句運動の騎手、西東三鬼の昭和37(1962)の忌日。本名斎藤敬直。岡山縣立津山中學に首席で入学、大正8年(1919)、母をスペイン風邪で亡くし、その後上京して青山学院中等部に編入するも中退。日本歯科医学専門学校に進学し、歯医者として生計をたてる。
 33歳の時、患者達のすすめで俳句を始め、「サンキュー」をもじって{三鬼」を名乗る。
 戦後、俳句の復活を志した山口誓子とともに昭和23(1948)に「天狼」を創刊するなど俳句の復興に尽力。句集として「旗」、「変身」、「夜の桃」、「今日」などがある。
 
   水枕 ガバリと寒い海がある
   広島や 卵食ふ時口開く
   冬に生れ ばつた遅すぎる早すぎる


 寛平の御時きさいの宮の歌合のうた         源まさずみ
 谷風にとくる氷のひまごとに 打ち出づるなみや 春の初花 (古今集12)

 平安中期の歌人源当純(まさずみ、生没年不詳)は、第55代文徳天皇(在位850~858)の皇孫で、近院右大臣源能有の5男です。
寛平6年(894)正月に太皇太后宮少進に任ぜられ、その後寛平8年(896)正月に従五位下、寛平9年(897)5月に大蔵少輔、昌泰3年(900)縫殿頭、翌年の延喜元年(901年)7月に摂津守、延喜3(903)年2月少納言、延喜7年(907)従五位上に昇叙されていますが、勅撰集へは古今集にこの1首のみが入首しています。

 この歌は、寛平5年(893)より前に、第59代宇多天皇(在位887~897)の母班子(はんし、833~900)女王が主催した歌合に出された歌とつたえられています。

 題しらず                          読人しらず
 み山には 松の雪だに消えなくに 宮こはのべの 若菜つみけり (古今集18)

 かすが野のとぶひの野守いでて見よ 今いくかありて若菜つみてむ (古今集19)

 あづさ弓おしてはるさめ今日ふりぬ 明日さへふらば若菜つみてむ (古今集20)

 仁和のみかど、みこにおましましける時に、
 人に若菜たまひける御うた
 君がため春の野にいでて若菜つむ わが衣手に雪はふりつつ (古今集21)


 仁和のみかどとは、第58代光孝天皇(在位884~887)のことで、元慶8年(884)第57代陽成天皇(在位876~884)の譲位を受けて践祚しましたが、この時年齢は五十五歳になっていました。

 一 五十八代  光孝天皇  時康
 次の帝、光孝天皇と申しき。仁明天皇の第三の皇子なり。御母、贈皇太后宮藤原沢子、贈太政大臣総継の御女なり。この帝、淳和天皇の御時の天長七年庚戌、東五条家にて生まれ給ふ。御親の深草の帝の御時の承和十三年丙辰正月七日、四品し給ふ。御年十七。嘉祥三年正月、中務卿になり給ふ。御年二十一。仁寿元年十一月二十一日、三品にのぼり給ふ。御年二十二。貞観六年正月十六日、上野大守かけさせ給ふ。御年三十五。同じ八年正月十三日、大宰権師にうつりならせ給ふ。同じ十二年二月七日、二品にのぼらせ給ふ。御年四十一。同じ十八年十二月二十六日、式部卿にならせ給ふ。御年四十七。元慶六年正月七日、一品にのぼらせ給ふ。御年五十三。同じ八年正月十三日に大宰師かけ給ひて、二月四日、位につき給ふ。御年五十五。世をしらせ給ふこと四年。小松の帝と申す。この御時に、藤壷の上の御局の黒戸は開きたると聞き侍るは、誠にや。
 『大鏡 第一巻 五十八代  光孝天皇』
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:38Comments(0)やまとうた