2009年02月06日
陶磁器(10)-五彩天馬蓋罐(明/嘉靖窯)
五彩天馬蓋罐(明/嘉靖窯)
(旧暦 1月12日)
句佛忌 本願寺23代法主で伯爵でもあった俳人大谷光演(法名彰如)の昭和18年(1943)の忌日。俳号句佛は、「句を以って佛徳を讃嘆す」の意。明治期の京都画壇の重鎮幸野楳嶺(1844~1895)やその弟子として「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれ、戦前の京都画壇を代表する大家竹内栖鳳(1864~1942)に日本画を学び、優れた日本画を残すなど、多彩な才能を発揮した。
いずこより なれ呼ぶ声を秋のくれ
(信濃川分水路を見て)
禹に勝る 業や心の花盛
嘉靖帝(在位1521~1566)は明朝第12代の皇帝ですが、第11代皇帝の正徳帝(在位1505~1521)には皇子がいなかったために、正徳帝の崩御と共に湖廣安陸州(湖北省鍾祥市)に封じられていた第10代弘治帝( 在位1487~1505)の異母弟の興献王(朱祐杭、1476~1519)の次子(長子は逝去)である朱厚熜(Zhu Houcong)が迎立されて即位し、世宗嘉靖帝となりました。
内閣大学士楊廷和(1459~1529)は、皇位を正当化するために礼部(礼樂・儀式を司る)で検討し、第10代弘治帝を「皇考」、嘉靖帝の実父興献王を「皇叔考興獻大王」、実母を「皇叔母興國大妃」とすることを進言しましたが、嘉靖帝は実父である興献王を「興獻帝」、実母を「興國太后」とすることを強く主張し、南京刑部主事の張璁(1475~1539)および同僚の桂萼(?~1531)等は嘉靖帝の意向を支持して大論争に発展しました。これを世に、「大禮の議」と呼んでいます。
嘉靖3年(1524)7月15日、左順門(現在の北京故宮協和門)に集まって嘉靖帝の方針に不満をとなえた220名の官員は、嘉靖帝の逆鱗に触れて主だった8人が逮捕されてしまいます。
さらにこれを慟哭した従五品員外郎の馬理をはじめとする五品官以下134名が錦衣衛(禁衛軍)の獄に繋がれ、四品官以上86名が停職、7月20日には四品官以上は俸給停止、五品官以下は廷杖(棒打ちの刑)で、その内16名は廷杖が原因で死亡してしまいます。
嘉靖三年(1524)秋七月
戊寅(ぼいん、15日)、廷臣闕(けつ、宮城)に伏(ひれ伏す)して固爭(こそう、つよく諫める)し、員外郎馬理等一百三十四人は錦衣衛(禁衛軍)の獄に下る。癸未(きび、20日)、馬理等廷に杖す、死者十有六人。
明史 巻十七 本紀第十七 世宗一
この後、嘉靖帝はだんだんと政治に意欲を失い、道教を尊崇して長生不老之術を好み、治世後半の27年間は、臣下に謁見したのはたった4回だけだったと伝えられています。 続きを読む