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2007年12月30日

国立故宮博物院(7)-新莽嘉量

 

 新莽嘉量 故宮博物院

 (旧暦 11月21日)

 横光忌、利一忌  大正末期から昭和初期にかけて、新感覚派の天才と呼ばれて川端康成と共に文壇で活躍した小説家、俳人横光利一の昭和22年(1947)の忌日。

 盟友川端康成(1899~1972)は翌年1月3日に行われた葬儀の中で、次のような弔辞を述べ、早すぎる別れを惜しみました。

 君の名に傍(よりそ)えて僕の名の呼ばれる習わしも、かえりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで続いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を霑(うるお)すのをひそかに僕は感した。その恩頼は君の死によって絶えるものではない。僕は君を愛戴する人々の心にとまり、後の人々も君の文学につれて僕を伝えてくれることは最早疑いなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文学は永く生き、それに随って僕の亡びぬ時もやがて来るであろうか。
 (中略)
 君に遺された僕のさびしさは君が知ってくれるであらう。君と、最後に会った時、生死の境にたゆたふやうな君の眼差の無限の懐かしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。


 「嘉量」とは古代中国で配布された容積の標準器のことで、春秋戦国時代(B.C.771~B.C.221)に現在の山東省を中心に存在した齊(せい、B.C.1046~B.C.386)という国で造られたものが最古であると云われていますが、狭義には、新代(8~23)の始建国元年(A.D. 9)に皇帝王莽(在位;A.D.8~A.D.23)の命により全国に配布された「新莽嘉量」(しんもうかりょう)のことを云います。
 
 前漢(B.C.206~A.D.8)の第11代元帝(在位;B.C.49~B.C.33)のあとは、第12代成帝(在位;B.C.33~B.C.7)、第13代哀帝(在位;B.C.7~B.C.1)、第14代平帝(在位;B.C.1~A.D.5)と暗愚あるいは幼少の皇帝による短い政権がつづき、実際に朝廷を支配したのは、第11代元帝の皇后王政君(B.C.71~A.D.13)であったと云われています。

 王莽(B.C.45~A.D.23)は、王皇后の甥として国政に参画し、政敵を次々と暗殺して政治の実権を握り、ついには14歳の第14代平帝(在位;B.C.1~A.D.5)を毒殺してその皇太子の孺子嬰(じゅしえい、A.D.4~ A.D.25、皇太子在位A.D.6~A.D.8)から禅譲をうけたとして帝位に就き、国号を「新」と改めました。
 
 帝位に就いた王莽は周代(B.C.1046頃~B.C.256)の治世を理想とし、新しい度量衡を定め、全国に配布しました。
 それが「嘉量」で、大きな円筒形のマス「斛(こく)」の左右に1つずつ小さなマス「升」、「合」がついた構造となっており、中央の大きなマス「斛(こく)」と小さなマスの片方「合」は上下がマス「斗」と「龠(やく、二分の一合)」となっており、もう片方の小さなマス「升」は上のみがマスとなっていて、このマス全てが標準器となっていました。

 新の度量衡は、前漢末から新にかけての天文学者劉歆(りゅうきん、?~B.C.23)の度量衡理論である「黄鐘秬黍(きょしょ)説」を元に、「黄鐘」という決まった音を出す笛を基準として定め、それを粒が均一な穀物である秬黍(きょしょ)の粒数で換算していました。
 容積の場合は黄鐘の笛1本分の容積を基礎とすることとし、笛に秬黍(きょしょ)がすり切りで1,200粒入ったことから秬黍(きょしょ)1,200粒分の容積を「1龠」(やく)とし、この「龠(やく)」を基礎単位に、「合」「升」「斗」「斛」(こく)の順で単位を定め、1合=2龠、1升=10合、1斗=10升、1斛=10斗としました。
 実際のアワ、キビによる実測では、1升が150.14g、1斗が1529.6gで、現行の日本の単位の約十分の一に相当するそうです。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:59Comments(0)国立故宮博物院