2007年12月23日
秋津嶋の旅(11)−畿内(3)−伏見(2)
月桂冠大倉記念館中庭
伏見の銘酒「月桂冠」は、寛永14年(1637)に初代大倉治右衛門が、京都府南部の笠置町から伏見に出て来て創業。屋号を「笠置屋」、酒銘を「玉の泉」と称したのが始まり。
(旧暦 11月14日)
秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)のつづき
この文久2年(1862)旧暦4月23日に起きた薩摩藩尊皇派等への上意討ち事件は、「寺田屋騒動」とも呼ばれ、海音寺潮五郎(1901~1977)の歴史小説「寺田屋騒動」 や司馬遼太郎(1923~1996)の長編歴史小説「竜馬がゆく」第3巻にも詳しく記述されています。
激論数回の後、9名の鎮撫使(鈴木勇右衞門の配下上床源介が懇願して同行)のひとり道島五郎兵衞が「上意」と叫んで抜き打ちに勤王倒幕急進派の田中謙助の眉間を切り割ったことから乱闘が始まります。
結局、階下で最初に対面していたリーダーの有馬新七および柴山愛次郎、橋口壯助が闘死、眉間を割られた田中謙助は両眼から眼球が飛び出し昏倒して気絶、乱闘中に2階から降りてきた弟子丸龍助、西田直五郎は即死、重傷を負った橋口傳藏、森山新五左衞門は後に蘇生した田中謙助とともに、翌日、伏見の薩摩屋敷に移され、君命違背の罪に依り屠腹、山本四郎は27日京都で自刃して結局9名の犠牲者を出しました。
鎮撫使側でも、道島五郎兵衞が即死、森岡善助、江夏仲左衞門、山口金之進の3名が重傷を負うという凄惨な事件となりました。
東京帝国大学文学部国史学科出身で、鹿児島市立鹿児島女子高校や玉龍高校の校長、鹿児島県立図書館長などを務められた芳即正(かんばし のりまさ)先生の著書『島津久光と明治維新』(新人物往来社)によれば、
この事件は、道島五郎兵衞の「上意」の叫び声から始まったことから、当時の薩摩藩の事実上の最高権力者で、第12代藩主島津忠義(1840~1897)の実父である島津久光(1817~1887)の命令による「上意討ち」と一般には理解されているが、実は「勅命」(天皇の命令)であった。(趣旨)
と云うことです。
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