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2007年12月21日

物語(6)-平家物語(2)-宇治川の事(1)

 

 宇治川に浮かぶ宇治公園の塔ノ島より、下流橘島の朝霧橋を望む

 (旧暦 11月12日)

 現在、琵琶湖から流れ出た水は瀬田川と呼ばれる川を下り、京都府に入るあたりで宇治川と名を変え、京都府と大阪府の境界付近の大山崎町で桂川、木津川と合流して淀川となります。
 しかし、古代から豊臣秀吉(1537~1598)が隠居所として現在の宇治川沿いの桃山丘陵に指月屋敷を築き城下の整備を始めた元禄3年(1596)頃までは、宇治川は現在の宇治橋の下流あたりから木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していました。

 「うしさんのおもしろ伏見の歴史」 
 http://comox.co.jp/~ushisan/pages/history.pages/ogura3.html

 この巨大な遊水池は、古くは万葉集巻9-1699の

 巨椋(おおくら)の入江響(とよ)むなり射部人(いめびと)の 伏見が田居(たい)に雁渡るらし

 という歌でも知られています。

 この当時の奈良から京へと向かう京街道は、巨椋池(おぐらいけ)を避けるように盆地の外縁部を通っていましたが、「宇治橋」が交通の要衝でした。
 「宇治橋」は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」、京都府大山崎町と八幡市橋本間に架かっていた「山崎橋」と共に日本三古橋の一つに数えられ、山崎太郎、勢多次郎、宇治三郎とも称されていました。
 また、「宇治橋」は「瀬田の唐橋」とならんで京都防衛上の要地でもありました。

 宇治川は現在では「宇治橋」の上流に天ヶ瀬ダムが建設されて水量が調節されているとはいえ、私「嘉穂のフーケモン」が訪れた師走の渇水期でさえ、相当の水量を湛えていました。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:33Comments(0)物語