2007年08月25日
おくの細道、いなかの小道(3)-日光
Basho by Buson.
(旧暦 7月13日)
三月廿九日、室の八島に詣でた芭蕉翁一行は壬生(下都賀郡壬生町)に出て楡木(にれぎ、鹿沼市内)に向かいますが、途中、牛若丸と名乗っていた時代の源義経を奥州平泉に伴って藤原秀衡に引き合わせたとされている金売吉次(吉次信高:義経記)の墓を訪れます。
ミブヨリ半道(はんみち)バカリ行(ゆき)テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有
曾良の「奥の細道随行記」より
平家滅亡後、兄頼朝と不仲になった九郎判官義経は、吉次を連れて奥州に落ち延びますが、途中病に冒されて吉次は亡くなり、亡きがらをこの地に葬ったのだとか。
同日、一行は鹿沼に宿泊します。
鹿沼についての宿泊は、芭蕉の笠塚のある曹洞宗の光太寺に泊ったとする説、元名主の都賀屋に泊ったと言う説、宿屋に泊ったのではないかという説等様々あるようです。
「そんなもん、どこに泊まったってええやないか」とは思いますが、地元にとっては大切な問題のようです。
さて、芭蕉翁の「おくのほそ道」本文では、
卅日(みそか)、日光山の麓に泊る。
とありますが、曾良の「奥の細道随行記」では
四月朔日(ついたち)、前夜ヨリ小雨降。 辰上尅(午前7時半頃)、宿ヲ出。止テハ折々小雨ス。終日曇、午ノ尅(正午頃)、日光ヘ着。雨止。・・・・
とあり日付が違います。
どうもこの元禄2年の3月は閏月にあたっていて30日はなかった、つまり29日が晦日(みそか:月の最後の日)だったようです。
ということで卯月朔日(ついたち)午ノ尅、陽暦の5月19日正午頃、芭蕉翁一行は日光に到着し、江戸浅草の江北山宝聚院清水寺からの書面を水戸徳川家参詣の折の宿坊養源院に届け、未ノ下尅(午後3時半頃)に東照宮を拝見し、夕尅、大谷川(だいやがわ)にかかる神橋にちかい上鉢石町の五左衛門という者の方に宿泊します。 続きを読む