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2007年08月17日

漢詩(19)-文天祥(4)-正氣の歌(4)

 

 諸葛亮孔明(181〜234)

 (旧暦  7月5日)

 荒磯忌(ありそき) 福井県坂井市三国町生まれの作家高見順の昭和40年(1965)の忌日。左翼くずれのインテリの苦悩を描いた『故旧忘れ得べき』(1936)や浅草を舞台に庶民の哀歓を描写した『如何なる星の下に』(1940)などの小説、昭和16年から書かれた『高見順日記』などで知られている。

 蕃山忌  近江聖人と称された中江藤樹に学んだ陽明学者熊澤蕃山の元禄4年(1691)の忌日。 幕府が官学とした朱子学と対立する陽明学者として幕府の弾圧を受けながらも、幕府の政策、特に「参勤交代」や「兵農分離」を批判し、晩年は下総国古河藩に蟄居謹慎させられた反骨の儒者。

 漢詩(18)-文天祥(3)-正氣の歌(3)のつづき

 或爲遼東帽 或ひは遼東の帽と爲り
 淸操厲冰雪 淸操は冰雪よりも厲(はげ)し 

 或爲出師表 或ひは出師の表と爲り
 鬼神泣壯烈 鬼神も壯烈に泣く

 或爲渡江楫 或ひは渡江の楫(かい)と爲り
 慷慨呑胡羯 慷慨 胡羯(こけつ)を呑む

 或爲撃賊笏 或ひは賊を撃つ笏(こつ)と爲り
 逆豎頭破裂 逆豎(ぎゃくじゅ)の頭(こうべ)は破れ裂く


 後漢が滅亡して西晋が中国を再統一するまでの三国時代(220~280)、魏の学者管寧(162~245)は黄巾の乱(184~)を逃れて遼東郡に避難しましたが、魏の曹操(155~220)に召されても仕えようとしませんでした。84歳まで長生きをしましたが、生涯仕官せず、清貧に甘んじました。

 魏の3代明帝(在位226~239)のときにも、その徳と学識によって光禄勲(九卿の一員で、宮殿の門を司り、殿中侍衛の軍人たちを仕切る中央官)に推挙されましたが、やはり固辞しました。魏に滅ぼされた後漢の遺民として、節を曲げることを潔しとしなかったのでしょう。
 年中身分の低い者がかぶる黒い粗末な帽子(皁帽;そうぼう)をかぶっていましたが、その清い操(みさお)は遼東の冰雪よりも厳しく、これも正気の表れです。

 またこの正気は、三国時代の蜀漢の軍師諸葛孔明(181~234)の「出師の表」という文章となって現れ、その壮烈さに鬼神(天地の神霊)をも泣かせるのです。

 東晋(317~420)の将軍祖逖(266~321)は、後趙(319~351)に奪われたかつての西晋(265~316)の失地を回復するため北伐に向かいますが、長江を渡るとき流れの中で楫(かい)で水を撃って次のように誓いました。

 中流にて楫を擊ち而して誓ひて曰く、「祖逖にして中原を清める能はずして而して復た濟(わた)らば、大江の如く有らん」 辭色壯烈、衆皆な慨歎す。
 『晉書 卷六十二 列傳 第三十二 祖逖』


 胡羯(異民族、後趙の創建者石勒は羯族の出身)を呑むほどの気概がその楫(かい)に表されていました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:40Comments(0)漢詩