2007年08月04日
漢詩(18)-文天祥(3)-正氣の歌(3)
安禄山(705〜757)
(旧暦 6月22日)
夕爾忌 広島県福山市が生んだ詩人、俳人木下夕爾の昭和40年(1965)の忌日。
名古屋薬学専門学校を卒業と同時に帰郷し、薬局を営むかたわら文学活動を続けた。その第一詩集『田舎の食卓』で文芸汎論詩集賞を受賞している。
君の瞳に みづうみみゆる五月かな
枯野ゆく わがこころには蒼き沼
漢詩(17)-文天祥(2)-正氣の歌(2)のつづき
嵆侍中(けいじちゅう)の血と爲る
嵆侍中(けいじちゅう)とは、中国西晋(265~316)時代の政治家嵆紹(けいしょう:253~304)のことです。皇帝の側近として皇帝の質問に備え落度を補う侍中(じちゅう)という官職に就いていました。
建武元年(304)7月、成都王司馬穎の乱の時、恵帝をかばって雨のような矢を浴びて死んだ人物ですが、彼の血が恵帝の御衣にかかり、乱平定後、臣下が衣の血を洗うことを請いましたが、恵帝は、「此れ嵆侍中の血なり、去る勿れ」と止めた故事が、『晉書 卷八十九 列傳第五十九 忠義 嵆紹』にしるされています。
張睢陽(ちょうすいよう)の齒と爲り
張睢陽(ちょうすいよう)とは、唐の安史の乱(756~763)に際し、睢陽城(河南省商丘県)を守った張巡(709~757)のことで、籠城6ヶ月に至り遂に食尽き、落城して囚われの身となります。
部下を督戦(叱咤激励して戦わせる)するときに、激しく歯がみして、歯が皆砕けたといわれていましたが、賊将の伊子琦(いんしき)が怒って刀で口をこじあけると、残っている歯は三、四本に過ぎませんでした。
伊子琦(いんしき)はその節義に感じて張巡を釋(ゆる)そうとしますが、彼を生かしておくのは危険であると進言するものがあり、結局、張巡は殺されてしまいます。
子琦、巡に謂ひて曰く、「聞く、公は督戰して大ひに呼びて輒(すなはち)眥(まなじり)裂け血面し、嚼齒(しゃくし)して皆な碎(くだ)く、何ぞ是れに至るや」
答へて曰く、「吾逆賊を呑む氣を欲す、顧(かへり)みて力を屈(つく)す耳(のみ)」
子琦怒りて、刀を以て其の口を抉(えぐ)る、齒の存する者は三四たり。
『新唐書 卷一百九十二 列傳第一百一十七 忠義 中 張巡』 続きを読む