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2007年05月04日

漢詩(16)-文天祥(1)-正氣の歌(1)

 

 文天祥(1236〜1283)

 (旧暦  3月18日)

 南宋(1127~1279)末期の右丞相兼枢密使、文天祥(1236~1282)は、かつての日本では忠臣義士の鑑とされており、江戸前期の朱子学者浅見絅斎(1652~1712)が著した『靖献遺言』にも評伝が載せられ、幕末の尊皇思想の啓蒙に大きな役割を演じたとされています。また戦前には国語の教科書にも載せられていました。

 南宋の第5代皇帝理宗(在位:1224~1264)の宝祐4年(1256)、21歳で状元(科挙の主席)に合格した文天祥は、時の宰相賈似道(かじどう、1213~1275)に迎合するのを潔しとせず不遇をかこちますが、南宋が亡国の危機に瀕した第7代皇帝恭帝(在位:1274~1276)の徳祐元年(1275)、勅を奉じて蹶起し、招かれて右丞相兼枢密使に任じられます。

 そして命を奉じて元軍に使者として赴きますが、談判決裂してその将(南宋討伐軍の総司令官)伯顔(バヤン;1236~1294)に捕らえられます。
 しかし、隙を見て脱出し、真州(江蘇省儀徴県)に入り、福建の温州に至り、ついで兵を江西に出しましたが、南宋の最後の第9代皇帝衛王(在位;1278~1279)の祥興元年(1278)10月26日、五坡嶺(広東省海豊県北方)で元の将軍張弘範(1238~1280)に捕らえられ、元の首都大都(北京)へ護送され、翌年の10月1日に到着しています。

 モンゴル帝国の第5代大ハーンであったフビライ(1215~1294、在位1260~1294)の意をうけた元の将軍張弘範の再三の降伏勧告にも従わなかった文天祥は、兵馬司の地下牢に移されて監禁されます。
 兵馬司の不潔な地下牢の中でも、文天祥は不屈の意志を貫き通しました。そして元の至元19年(1282)、ついに大都の柴市に引き出されて死刑に処せられました。

 私「嘉穂のフーケモン」などは、さぞかし閉所恐怖症で発狂してしまうでしょう。
 その土牢の中で作ったのが有名な『正氣の歌』です。この詩は、幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖、吉田松陰、広瀬武夫などがそれぞれ自作の『正気の歌』を作っています。
 
 さてこの『正氣の歌』には、長い序文があります。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:02Comments(0)漢詩