2006年01月07日
漢詩(11)−杜甫(3)−飲中八仙歌(2)
李白(701〜762)
(旧暦 12月 8日)
夕霧忌 江戸初期の大坂新町「扇屋」の遊女夕霧の延宝6年(1678)の忌日。
歌舞伎、浄瑠璃作家近松門左衛門(1653〜1725)が作った世話物の人形浄瑠璃で、正徳2年(1712)、大坂竹本座で初演された『夕霧阿波鳴渡』により広く世に知られるようになった。
『飲中八仙歌』の第六聯で「李白は一斗詩百篇」と詠われていますが、唐代の度量衡では一斗は約5.94リットルで、また唐代のお酒は全て醸造酒であり、アルコール度数はそれほど高くなかったようです。
明代の萬暦24年(1596)頃に蘄州(きしゅう、湖北省蘄春県)の医家李時珍(1518〜1593)の著した中国の伝統的な薬物学の本である『本草綱目』には、汾酒や茅台酒などで知られる強い蒸留酒は、元代(1271〜1368)に始まるとしているようです。
従って、唐代のお酒はビールに毛が生えたようなアルコール度数だったのでしょうかね。これなら一斗(約6リットル)ぐらいは飲めたかもしれません。
後世の人々から詩仙と称された李白(701〜762)は、蜀の綿州(四川省)あるいは西域の人で、若い時は剣術を好んだり任侠の徒と交わったりして、放浪の生活を送っていたようですが、天寶元年(742)42才の時に長安の都に出てきて賀知章の知遇を得、彼の推薦で皇帝直属の文章の起草などを行う翰林供奉という官職を得ました。しかし、2年ほど後に宦官の高力士の讒言により宮廷を追われ、ふたたび放浪の生活に戻りました。
天寶3載(744、この年から「年」から「載」に改められた)、郷里の越州永興(現・浙江省蕭山市)に帰って道士となることを求めて許可された賀知章は、帰郷するときには玄宗自ら詩を贈り、皇太子を始めとする百官が見送ったと云われていますが、帰郷して間もなく没しました。享年86歳。
訃報に接した李白は、「酒に対して賀監を憶う」という二首を作りましたが、その詩には次のような序文がついています。 続きを読む