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2006年01月03日

板橋村あれこれ(15)−加賀藩下屋敷跡

 

 加賀前田家下屋敷築山跡

 (旧暦 12月 4日)

 板橋村の板橋3、4丁目、加賀1、2丁目一帯は江戸時代、加賀藩前田家の下屋敷があった所です。

 前田家の上屋敷跡は有名な東京大学で、東大の代名詞にもなっている赤門(御守殿門)は、文政10年(1827)に11代将軍家斉の第34子(21女)溶姫(やすひめ、1813〜1868)が13代藩主前田斉泰(1811〜1884)に嫁入りしたときに建てられましたが、下屋敷の赤門は、現在も板橋3丁目25番地の真言宗豊山派の寺院如意山観明寺山門として使用されています。

 もともとこの門は、下屋敷通用門として旧中山道と国道17号線(新中山道)とが交差している板橋4丁目13番地あたりにあったようですが、明治になって下屋敷跡地が陸軍の火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)建設のために接収されたので、一部の建物が観明寺に移築されたもののようです。

 ところで我が板橋村のライバル、文京村の東京大学の敷地もかっては下屋敷の時代があったようです。その期間は、3代藩主利常(1594〜1658)が2代将軍秀忠(1579〜1632)から屋敷を拝領した慶長19年(1614)から天和2年(1682)の間でした。
 
 さて我が板橋村の下屋敷は、5代藩主綱紀(1643〜1724)が、延宝7年(1679)、4代将軍家綱(1641〜1680)から6万坪の敷地を板橋宿平尾に賜り、別邸を建てたことに始まります。

 そもそも上屋敷、中屋敷、下屋敷といった区分けは、江戸城の天守、本丸等多くの櫓、門を焼失し、大名屋敷500、旗本屋敷770、寺社300、蔵約9,000、橋60、町屋400町、死者10万7,046人といわれている明暦3年(1657)1月18日におきた明暦の大火によりそれまでの拝領屋敷が焼失したため、緊急避難場所或いは緩急時の藩兵の駐屯場所としての屋敷を確保する爲に区分けされたと云われています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:03Comments(0)板橋村あれこれ