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2006年01月02日

板橋村ゆかりの人々(3)−宇喜多秀家

 

 宇喜多家墓所

 (旧暦 12月 3日)

 宇喜多(秀家)さんちのお墓は、板橋村の板橋3丁目13−8の丹船山薬王樹院東光寺にあります。

 宇喜多氏(うじ)は、備前国(びぜんのくに)の戦国大名ですが、戦国時代末期の宇喜多能家(?〜1534)の時代には、播磨、備前、美作の三ヶ国を領する守護大名赤松氏のもとで備前の守護代を務めていた浦上村宗(?〜1531)の重臣として仕え、備前国砥石ヶ城(岡山県瀬戸内市邑久町)に居を構えていました。

 宇喜多直家(1529〜1582)は、祖父能家(よしいえ)が同じく浦上氏の家臣で高取山城主島村盛実(1509〜1559)らによって攻め滅ぼされた天文3年(1534年)には6歳でしたが、父興家(?〜1536)と共に備後国鞆津まで落ち延び、後に備前福岡の豪商阿部善定に庇護されました。
 成人ののちは天神山城主浦上宗景に仕えるようになって浦上家臣団の中で頭角を現し、天正3年(1575年)には主君浦上宗景の兄政宗の孫久松丸を擁立して宗景を播磨へ退け、備前、備中の一部、美作の一部にまで勢力を拡大し、これ以降直家が居城にした岡山が備前国の中心になりました。

 さて、宇喜多秀家さんは天正10年(1582)、父直家の病没により9歳で家督を相続、毛利征伐のため出陣してきた羽柴秀吉に気に入られて養子扱いの厚遇を受けます。元服の際には、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられて「秀家」と名乗るようになりましたが、秀吉の寵愛を受け、天正16年(1588年)には、秀吉の養女で加賀の太守前田利家(1539〜1599)の四女豪姫(1574〜1634)を正室としています。

 本能寺の変ののちは秀吉の天下取りの戦いに積極的に参戦、数々の戦功を挙げ、天正18年(1590)秀吉の天下統一後は備前国、美作国、播磨国西部と備中国東半の57万4千石を知行する大大名に躍進しました。
 また文禄の役(第一次朝鮮出兵)では、文禄2年(1593)の碧蹄館(高陽市碧蹄洞一帯)の戦いで本隊大将を務め、海禦倭総兵官李如松(?〜1598)率いる4万3千の明軍を撃破し、その武功により従三位中納言に昇進しました。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:09Comments(0)板橋村ゆかりの人々