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2005年12月16日

日本(23)−布哇(ハワイ)作戦(3)


 

 昭和16年(1941)10月18日、総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚らとの記念撮影

 
 (旧暦 11月 15日)

 日本(22)−布哇(ハワイ)作戦(2)のつづき

 海軍軍令部第一部(作戦担当)が、聯合艦隊の布哇作戦計画に反対した理由は以下のようなものでした。

 1. 作戦が投機的でリスクが大きく、たとえ奇襲攻撃に成功したとしてもその時に真珠湾に米主力艦隊が在泊している保証はない。
 2. 開戦後、真の戦略目的である南方作戦(ジャワ島に進出して南方の油田地帯を確保する目的)のために、支障を来す。


 しかし、海軍大学校での図上演習で布哇作戦計画を検討して欲しいとの聯合艦隊先任参謀黒島大佐の強い要請により軍令部が譲歩し、昭和16年(1941)9月16、17日の2日間、目黒の海軍大学校の特別室で布哇作戦特別図上演習が行われました。
 その結果、攻撃側の青軍は、主力艦4隻撃沈、1隻大破、航空母艦2隻撃沈、1隻大破、巡洋艦6隻を撃沈破、航空機180機を撃墜破との判定が出ましたが、攻撃側の被害も大きく、航空母艦2隻が撃沈され2隻が小破、航空機127機を失い、翌日には飛行艇や長距離爆撃機の攻撃により、残りの航空母艦2隻も撃沈されて全滅し、搭載航空機全てを失うという結末になりました。

 同年10月19日、山本聯合艦隊司令長官の布哇攻撃に対する職を賭した不動の決意と航空母艦6隻による布哇作戦の決定案を持って軍令部に出頭した黒島先任参謀は、第一部長福留繁少将(海兵40期)、第一課長富岡定俊大佐(海兵45期)と激論になりましたが、決断を迫られた軍令部総長永野修身大将(海兵28期)の裁定により決済され、11月5日に布哇作戦は正式に認可されてしまいました。

 

 昭和十六年 大東亞戰爭開戰直前の省部一同(海軍省、軍令部)合同写真。

 左から4人目 伊藤整一軍令部次長、3人おいて 永野修身軍令部総長、嶋田繁太郎海軍大臣、
 1人おいて 澤本頼雄海軍次官、2人おいて 福留 繁軍令部第一部長、右端 中原義正海軍省人事局長。
 二列目左から5人目 富岡定俊軍令部第一課長。
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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:58Comments(0)歴史/日本