2005年06月05日
染井霊園(7)−松浦詮(あきら)の墓
(旧暦 4月29日)
染井霊園の一角に、周囲を塀で囲まれ木々が鬱蒼と茂っているところがあります。
ここは、肥前平戸6万1千石松浦(まつら)家の墓所です。めずらしい苔むした石の土饅頭型の墓石は、松浦家第37代当主松浦詮(あきら)(1840〜1908)の墓石です。
松浦家は江戸大名の中でも屈指の古い家柄で、始祖は桓武天皇の皇子で、能書家として弘法大師、橘逸勢とともに「三筆」の1人として数えられ、また勅撰漢詩集『凌雲集』、『文華秀麗集』を編纂せしめたことでも知られる第52代嵯峨天皇(786〜842、在位809〜823)の第18皇子融(とほる)とされています。
融(とほる)(822〜895)は、源氏姓と家紋の三星を賜い臣籍に降下して、後に河原左大臣と呼ばれ、『源氏物語』の光源氏のモデルとされています。
貞観6年(864)陸奥・出羽の按察使(あぜちし)として多賀城に赴任しますが、遙任(かたちだけで実際に赴任していない)であったのではないかとも言われていますが、
陸奥(みちのく)のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに みだれむと思ふ我ならなくに (古今集巻十四(恋四) 「題しらず 河原左大臣」 724)
という、小倉百人一首(14)にも載っている歌を詠んでいます。 続きを読む